原子力発電所の事故による放射性物質が飛来し、なんの知識もなく立ち向かわざるを得ませんでした。
危機管理能力のない者達の過去のいい加減な仕事のせいで、多くの人間が苦しみました。
私の住んでいる二本松市は避難区域にはなりませんでしたが、それでも怒りが込み上げてきました。
実際に避難を余儀なくされた方達の怒りは私には計り知れないものであろうと考えています。
避難区域にはならなかったとはいえ、それでも不安、怒り、苛立ち等々を今も抱えています。
私は以前から何かをしていると頭の中で旋律が流れ出す妙な癖があります。
大概の場合オーケストラのような感じで流れてきますが、オーケストレーションが全くわかりませんので、ピアノに託すことにしています。
この曲は、様々なできごとを時系列的にまとめたものです。
どのようなことがあったかを知って頂ければ幸いです
別れにはいろいろな別れがありますが、永遠の別れが最も悲しく思います。
浪江町から避難されてきた町役場の課長さんとお話をしましたが、部下を津波で亡くされた悲しみ、放射線量が高くて行方不明の方達の捜索ができない悔しさなどをお聞きしました。
作業などが一段落したときの後姿の寂しそうなことは本当にお気の毒でした。
私もこの間に友人を亡くしました。永遠の別れを受け入れるには、多くの歳月が要るもののようです。
ご冥福をお祈りしているときに頭の中で流れてきたものをまとめた曲です。
徐々に様々な情報を得ることができるようになるにつれ、原子力行政に携わってきた者達の無責任さに怒りを覚えました。
大津波は学者さんがとうに警告を発していたにもかかわらず、なんの知識もない社員がこれを抹殺したこと、メルトダウンに伴う水素爆発は電気の確保ができなかったことに起因する等、あまりの無責任さ、お粗末さに怒りを禁じえませんでした。
一方で放射能の不安がある中で、救援物資を届けてくださった方々、慰問においでくださった方々等々、心打たれる機会を多く頂きました。
反面、無責任であった者達は、その当時得た報酬を返還もせず、事故後は何もしないということも知りました。
避難区域ではないものの、放射線量が高くはない、健康に直ちに影響はないという言葉を信じて私はこのまま福島県で生きていくことにしました。
この判断が正しかったどうかは、後年明らかになると思います。
今回の原発事故を通じての反省は、広島、長崎の方々に対して、阪神・淡路大震災等の災害に遭われた方々に対して心配りが中途半端であったということでした。
痛い目に遭うと痛かった人達の想いが少しではあっても感じることができたように思います。
原発事故の被害者のまま終ってはならないという心、前へ進んでやるという強い心も湧き上がってきました。
当初この3曲目は不安や怒りは消えることはないものの、ご支援頂いた方々に励まして頂き、その感謝を胸に前へ進もうと、最後は行進曲風な旋律で終るものでした。
けれども、これだけの大惨事を引き起こしたにもかかわらず、誰も罰せられない、誰も悪くないという裁判所の決定がなされたという新聞報道に怒りが爆発し、奇妙な旋律もどきの音の羅列が頭の中で駆け巡り、考えた末に行進曲風な旋律を捨て、音の羅列をそのまま曲の後半にもってきました。
この3番目の曲は、今回掲載しました「立ち上がる」バージョンと、同時進行で頭の中を駆け巡っていた「怒りと悲しみ」バージョンの2つがあります。
本心は「怒りと悲しみ」バージョンだろうと思っていますが、放射線量が最も高い時期に救援物資を運んでくださった方々、或いは放射線量が高いことを十分ご承知のうえで慰問に駆けつけてくださった方々のお心を思うとき、「悲しみと怒り」バージョンは前へ進もうとしない心に支配されているときの自分の心境であることから「立ち上がる」バージョンにしました。
因みに、立ち上がるバージョンの立ち上がる部分は、当時気分転換にとネットで絵画鑑賞をしていてたまたま目にしたミレーの種蒔く人を見て元気出さねばと思ったときに浮んだ旋律です。
■ 怒りと悲しみバージョンはこちら ■
私はこんなふうに考えています。
どういう立場の人間がどうすべきであったかという、当事者がなすべき検証を正直にすべきであると。
そして、原発事故のみならず、災害に遭っても辛くても前へ進むことが大事なのではないかと。
現代の日本人は、過去の災害、過去の教訓を活かせませんでした。
事故が少しでも風化しないで、このような思いをする人がもうでませんようにと願うのみです。
付記
私の意見を申し上げますならば、原子力発電に限らず、危機管理意識、危機管理能力のない者は責任あるその場から去れ、ということです。
原子力発電所の事故による放射性物質が飛来し、なんの知識もなく立ち向かわざるを得ませんでした。
危機管理能力のない者達の過去のいい加減な仕事のせいで、多くの人間が苦しみました。
私の住んでいる二本松市は避難区域にはなりませんでしたが、それでも怒りが込み上げてきました。
実際に避難を余儀なくされた方達の怒りは私には計り知れないものであろうと考えています。
避難区域にはならなかったとはいえ、それでも不安、怒り、苛立ち等々を今も抱えています。
私は以前から何かをしていると頭の中で旋律が流れ出す妙な癖があります。
大概の場合オーケストラのような感じで流れてきますが、オーケストレーションが全くわかりませんので、ピアノに託すことにしています。
この曲は、様々なできごとを時系列的にまとめたものです。
どのようなことがあったかを知って頂ければ幸いです
別れにはいろいろな別れがありますが、永遠の別れが最も悲しく思います。
浪江町から避難されてきた町役場の課長さんとお話をしましたが、部下を津波で亡くされた悲しみ、放射線量が高くて行方不明の方達の捜索ができない悔しさなどをお聞きしました。
作業などが一段落したときの後姿の寂しそうなことは本当にお気の毒でした。
私もこの間に友人を亡くしました。永遠の別れを受け入れるには、多くの歳月が要るもののようです。
ご冥福をお祈りしているときに頭の中で流れてきたものをまとめた曲です。
徐々に様々な情報を得ることができるようになるにつれ、原子力行政に携わってきた者達の無責任さに怒りを覚えました。
大津波は学者さんがとうに警告を発していたにもかかわらず、なんの知識もない社員がこれを抹殺したこと、メルトダウンに伴う水素爆発は電気の確保ができなかったことに起因する等、あまりの無責任さ、お粗末さに怒りを禁じえませんでした。
一方で放射能の不安がある中で、救援物資を届けてくださった方々、慰問においでくださった方々等々、心打たれる機会を多く頂きました。
反面、無責任であった者達は、その当時得た報酬を返還もせず、事故後は何もしないということも知りました。
避難区域ではないものの、放射線量が高くはない、健康に直ちに影響はないという言葉を信じて私はこのまま福島県で生きていくことにしました。
この判断が正しかったどうかは、後年明らかになると思います。
今回の原発事故を通じての反省は、広島、長崎の方々に対して、阪神・淡路大震災等の災害に遭われた方々に対して心配りが中途半端であったということでした。
痛い目に遭うと痛かった人達の想いが少しではあっても感じることができたように思います。
原発事故の被害者のまま終ってはならないという心、前へ進んでやるという強い心も湧き上がってきました。
当初この3曲目は不安や怒りは消えることはないものの、ご支援頂いた方々に励まして頂き、その感謝を胸に前へ進もうと、最後は行進曲風な旋律で終るものでした。
けれども、これだけの大惨事を引き起こしたにもかかわらず、誰も罰せられない、誰も悪くないという裁判所の決定がなされたという新聞報道に怒りが爆発し、奇妙な旋律もどきの音の羅列が頭の中で駆け巡り、考えた末に行進曲風な旋律を捨て、音の羅列をそのまま曲の後半にもってきました。
この3番目の曲は、今回掲載しました「立ち上がる」バージョンと、同時進行で頭の中を駆け巡っていた「怒りと悲しみ」バージョンの2つがあります。
本心は「怒りと悲しみ」バージョンだろうと思っていますが、放射線量が最も高い時期に救援物資を運んでくださった方々、或いは放射線量が高いことを十分ご承知のうえで慰問に駆けつけてくださった方々のお心を思うとき、「悲しみと怒り」バージョンは前へ進もうとしない心に支配されているときの自分の心境であることから「立ち上がる」バージョンにしました。
因みに、立ち上がるバージョンの立ち上がる部分は、当時気分転換にとネットで絵画鑑賞をしていてたまたま目にしたミレーの種蒔く人を見て元気出さねばと思ったときに浮んだ旋律です。
■ 怒りと悲しみバージョンはこちら ■
私はこんなふうに考えています。
どういう立場の人間がどうすべきであったかという、当事者がなすべき検証を正直にすべきであると。
そして、原発事故のみならず、災害に遭っても辛くても前へ進むことが大事なのではないかと。
現代の日本人は、過去の災害、過去の教訓を活かせませんでした。
事故が少しでも風化しないで、このような思いをする人がもうでませんようにと願うのみです。
付記
私の意見を申し上げますならば、原子力発電に限らず、危機管理意識、危機管理能力のない者は責任あるその場から去れ、ということです。