永遠のプリマ・ドンナ
関 屋 敏 子(1904〜1941)

 “国宝の名をかむりしほまれ思へば 我名はわれのものならずして うつしみの身は消ゆるとも とこしへに光に生ん我名わがたま”
 これは、37歳の若さで自らの命を絶った世界的プリマ・ドンナ関屋敏子が自作「野いばら」の楽譜裏表紙に遺した辞世の歌です。

  家系と誕生
 関屋家は、代々二本松藩主の御典医として仕えた家柄でした。敏子の父・祐之介は、六代玄堂の嗣子でしたが、医の道を断念、上京して実業家として成功していました。
 明治37年3月12日、敏子は東京小石川区で関屋家の長女として誕生。母は池田愛子といい、その父はフランス王室の血を引くアメリカ南北戦争の勇将ル・ジャンドル将軍という家柄でした。
 敏子は、幼少の時から良家の子女のたしなみとして、琴や日本舞踊、長唄などの稽古事に励み、音楽的才能を磨きました。

  三浦 環との出会い
 将来音楽家の道を志したいという気持ちを決定的にしたのが、当時日本音楽界の明星と称されていた三浦 環との出会いでした。偶然耳にした敏子の長唄で、その天性を察した三浦は、自ら関屋家を訪れ、自分のもとで声楽を勉強させたいと申し入れたのです。
 大正3年(1914)、師とともに初めての発表会に臨んだ11歳の敏子は、イタリア語でロッティ作曲“美しい唇よ、せめてもう一度”の難曲を譜面も持たずに歌い上げました。
 翌朝の『都新聞』は、“天才音楽少女”の見出しで「師三浦夫人のおもかげを表し、将来は実に有望であり、出藍の独唱者となるであろう」と絶賛したのです。

  イタリアでの活躍
 日本での修練に限界を感じていた敏子は、ついに憧れのオペラの本場・イタリアに留学を決意し、昭和2年(1927)父とともに神戸港を出航。
 イタリア音楽界の名指揮者であるスカラ座のスキャボニーに師事、天性の才能を発揮し一ヶ月足らずで三大オペラ「椿姫」「ルチア」「リゴレット」の役を修得しました。
 のち、多くの演奏会に出演して高い評価を得る一方、世界最古の音楽大学・ボローニア大学から日本人初のディプロマ(特別卒業証書)が贈られました。さらに、スカラ座のプリマ・ドンナとしての位置を築き、イタリアをはじめ欧米諸国から多くの出演要請があり、精力的に活動しています。

  永遠の旅立ち
 昭和9年、前年パリで発表し絶賛された自作自演のオペラ「お夏狂乱」を日本初公演として歌舞伎座で上演、敏子の新境地を拓いた日本風オペラは多くの音楽ファンを魅了するとともに、日本音楽史上にも大きな足跡を残しています。
 のち、両親の勧めで結婚したものの4年足らずで破局。心の中の空虚を埋めるかのように休む間もなく歌い、また作曲を続ける日々を送りました。
 昭和16年の晩秋、オペラ「巴御前」の作曲に没頭して深夜まで楽譜に向かう敏子の心身の疲労は極限に達していました。
 11月23日夜、睡眠薬を服用し、自ら人生の舞台に幕をおろしたのです。
 
 オペラ「椿姫」に扮した敏子(23歳)
 二本松市教育委員会所蔵